大津無情/nekoさん
旧「おきたふぁんくらぶ」様より


いつも温厚な山南にしては、珍しく激しい口調で近藤に迫っているのを総司は、局長室のまえの廊下で聞いた。
西本願寺への屯所移転をめぐって、毎日のように山南は、近藤・土方を相手に激しい議論をしていた。温厚な山南が、なぜそこまで執着しているのか、分かりかねたが、激論がいつしかお互いの感情に深い溝を作りつつあることは総司にも推察できるのである。
総司は、ちょっとためらってから、
「近藤先生、沖田ですが・・・」
と、廊下に膝をついて声をかけた。中が一瞬水をうったように静まり返った。やがて、
「総司か、入れ。」
と、近藤の声がした。障子を開けると、近藤も山南も苦り切った顔をしており、そこでのやりとりがどんなものであったか、容易に想像できた。
「どうしたんだ。」
廊下に膝をついたままの総司に声をかけて、近藤の顔はふと和んだ。
「今、会津からのお使者の方と出会いまして・・・近藤先生に至急黒谷まで出向いてくださるよう 、言付かりました。」
「そうか。それなら、すぐ出向かねばなるまい。」
山南の執拗さに辟易としていた近藤は、助かったとばかりに表情を明るくして立ち上がった。
「近藤さんッ。」
「山南、この話は、いずれゆっくり聞こう。」
「しかし・・・」
近藤は、もう山南の方を振り向きもせず、そさくさと出ていってしまった。その後に憤懣やる方なき表情の山南と総司とが二人、ぽつんと残された。
「山南さん。」
総司は明るい声で、
「私は、今日は非番なんです。何か美味しいものでも食べにいきましょうよ。」
と、笑いかけた。山南もその笑顔につり込まれたように相好をくずして頷いた。


「総司、この頃身体の具合はどうなんだ?」
山南は、銚子を傾けて総司に酒をついでやりながら、優しい眼をして言った。試衛館の頃から、山南と総司は不思議によく気が合った。学識豊かで物静かな山南を総司は敬愛していたし、山南は総司を実の弟のように可愛がっていた。
その総司が、当時不治といわれた労咳にかかっていることを山南は自分のことのように心を痛めているのである。
「ええ、もう、どうってことないです。治ってきてるんじゃないかな。」
総司は、笑いながら、盃をほす。山南の盃に注ごうとする総司に、山南は総司の盃をとった。
「いけません。山南さん。そんなことをしたら・・・」
「心配ないさ。伝染りゃしないさ。さあ、ついでくれ。」
山南は、盃をぐいとほすと、
「知っているよ。君がいつも周囲に気を遣っているのを。酒席で飲まなくなった のも、そのためだろ。」
と、総司の顔を痛ましそうに見た。総司は、にこっと笑い、首を振った。
「酒は、もともと飲めるほうではないんです。そんなことより、山南さん。」
総司の眼が真剣味を帯びている。
「屯所移転の件、あまりムキにならないでくださいね。いつもの山南さんらしくなくて・・・私は、気が気じゃないんです。」
「総司・・・」
「山南さんのおっしゃってること、よく分かります。でも、土方さんは、言い出したらきかないですからね。それは、山南さんも知ってるでしょう。山南さん、ほどほどで引いてくださいよ。」
総司は、自分の胸を大げさに押さえた。
「そうじゃないと、胸が苦しくて・・・」
と、悪戯っぽくぱっと笑った。
「悪かったな。総司。心配をかけて・・・」
山南は、今更ながら、この若者の温かさに胸が熱くなった。隊の中で次第に孤立してきた今の山南にこんな親身な言葉をかけてくれる者は少ない。試衛館の頃と変わらぬ総司であった。山南は、ふと遠い眼をした。
「試衛館のころから、変わらないのは君ぐらいだな。」
総司の脳裏にも試衛館の頃の懐かしい想い出がうかびあがってきた。貧しかったけれど、穏やかだった日々。信じ合っていた仲間達。総司の眼から見ると、新選組と言う一つの集団を牛耳ってから、近藤も土方も山南も試衛館の頃とは違ってきていた。集団での地位が、守るべき役目が人を変えてしまうのだろうか。野望とか野心とかいうものとどこか無縁の総司には、理解しがたい一面だった。しかし、総司はそんな三人を批判しない。冷静に批判するには、あまりにも三人は総司にとって親しい人達だった。実の兄にも等しい人達なのである。
だから、山南と近藤・土方の深まる対立を総司は、胸が痛くなる思いで見ていた。
「私は、剣を振るうしか能がありませんからね。変わり様がありません。」
と、明るく笑う総司をみながら、(この笑顔を守ってやりたい。)と、願った山南であったのに・・・無情の時は、そこまで来ていた。


*************


その夜、総司は、明け方ちかくまで、寝付かれなかった。
昨夜、局長室から出てきた山南の青ざめた顔が気になってならなかった。
「山南さん、どうしたんです?」
声をかけた総司にも気づかず自室に向かった山南を総司は不安そうに見送った。
巡察に出かける時でなければ、そのまま山南を追いかけていたのだが・・・
巡察から、戻って山南の部屋を覗こうとしたが、すでに寝静まったような気配に声をかけることができなかった。


明け方近くにようやくうとうとと眠りかけたとき、廊下を密やかに通る特徴ある足音に気づいて目が覚めた。その足音は真っ直ぐ隣の副長室に消えた。監察の山崎蒸である。
「何?山南さんが。」
土方の低い声が、それだけは、はっきりと聞こえた時、総司は飛び起きて、身支度を整えた。土方が、局長室へ入るのを追うようにして、総司も中に入った。
そこで、総司が聞かされた事は、一通の書状を残して、山南が脱走した ということだった。
書状を読み終えると、総司は、立ち上がった。
「まだ、遠くへ行ってないはずです。私が隊へ帰ってくださるようお願いしてきます。必ず、山南さんを説得しますから、私にいかせてください。」
「総司っ。」
土方は、部屋を出ていこうとする総司を鋭く呼び止めた。
「そうだ。総司。おまえしかいない。おまえなら、山南を連れ戻せる。」
「・・・・・・・・」
土方の真意が計れず黙って立ちつくしている総司に土方は冷たい表情で言った。
「他の者をやれば、山南もおとなしくは戻らんだろう。そうだ。おまえなら・・山南も素直に戻ってくるだろう。」
「土方さん、ま、まさか・・・」
総司は、信じられないという表情を土方に向けた。
「事、ここに至れば、やむをえまい。昔の同志だからといって見逃すわけには いかねえ。山南を連れ戻し、武士らしく切腹させるしかあるまい。」
「土方さん、あなたという人は・・・」
総司は、その場に愕然と膝をついた。
「そんなこと、納得できません。山南さんは、試衛館からの仲間ですよ。」
「古い同志だからといって、見逃せば、これから先、局中法度はなきに等しいものとなる。局を脱するを許さず。背けば切腹。一人の例外も認められねえ。」
「山南さんより局中法度が大切なんですか。」
「そうだ。」
総司は、唇を噛みしめた。膝のうえの握り拳がぶるぶる震えた。その様子を見て、土方は、
「山南と仲のよいおまえに行けというのは、酷だったな。」
凍り付くような冷たい表情で言った。端麗な顔立ちがこの場合、いっそう冷酷に見える。
「土方さん・・・・」
「総司がいやなら、仕方ない。他のものをやるまでだ。」
立ち上がって人を呼ぼうとする土方を押しとどめて、総司は刀を腰に差した。
「分かりました。他の人をやるぐらいなら、私が行きます。」
「総司、おまえは追っ手だ。その覚悟で行くということだな。」
「そうです。私も新選組の隊士です。局中法度がいかに重いものか、よく分かりました。」
「山南が戻らぬと言えば、やむを得ない。山南を斬らねばならない。
分かっているか。」
「はい。」
「そうか。ならば、行け。そう遠くへは行っていまい。馬で追えば、すぐ追いつくだろう。」
「はい。では、行って来ます。」
総司は、静かにうなずいた。先ほど見せた激した感情はもうどこにも見えなかった。感傷を心のどこかで振り切ったように土方には見えた。
幸薄い生い立ちがそうさせるのか、総司は溢れるような感性をもちながら、決して感情に溺れることのない怜悧さを備えていた。
もっともそういうところが土方が気にいっている総司の一面だった。
「総司。」
今まで一言も発しなかった近藤が総司を呼び止めた。無骨な近藤の目に涙が盛りあがっているのを総司は見た。
「おまえに、辛い思いをさせるが・・・頼む。」
「はい。」
総司は、もう駆け出していた。


**************


粟田口から伏見街道へ。
総司は馬をとばした。身を切るような寒い日であった。
吐く息が白々と凍り付く。

寒気がのどに入りこみ、咳が出た。激しく咳こみながらも、総司は懸命に馬を飛ばした。

大津の宿にさしかかった時、道ばたの茶店で休む山南の姿を見つけた。総司は馬から飛び降りると、
「山南さん。」
大声で呼んだ。その声に一瞬、ぎくっとたじろいだ山南は、そこに常と変わらない明るい笑顔の総司を見つけると、自然と笑顔を返した。
「総司・・・どうしたんだ。」
「よかったあ。間にあって。見送りにきたんですよ。」
膝に手をついて、はあはあと、息をはずませる。その背を山南は、優しくなぜてやる。店の者が温かい湯を入れた湯飲みを持ってきてくれ た。ごくりと喉を潤してから、
「私に黙って江戸へ帰られるなんて、ひどいですよ。」
総司は山南を軽く睨んだが、その眼が微笑っている。
「近藤さんや土方君は、私を見逃してくれたのか?」
山南は一番気がかりなことを口にした。
「見逃すもなにも・・・試衛館いらいの仲間じゃありませんか。」
総司は、屈託なくにこりと笑った。山南は、その笑顔の明るさに何の疑問も持たなかった。
「そうか・・・そうだな。それでなくちゃ、大事な君を来させるはずはないな。」
山南は、ほっと安堵の息をもらした。
「山南さん、今夜は、ここに宿をとりましょう。わかれの夜だからゆっくり酒でも酌み交わしましょう。第一、壬生から馬を飛ばしてきたので、もう、一歩も歩けそうにありません。」
「そうだな。」
山南を急かせ、総司は湖の見える一軒の宿屋に部屋をとった。


酒を酌み交わし、談笑し、ふたりだけの静かで温かい時が、流れていった。
「山南さん、ほら、夕日が・・・」
「うん。」
「見事なものですね。」
総司は、窓辺に寄りかかって、うっとりとした表情で夕日を見ている。
湖水をあかね色に染めて。今、日が落ちようとしている。
「総司、隊務は、大変だろうが、身体をいとえよ。」
「はい。山南さんは、江戸に着いたら・・・」
総司は、どこか遠い眼をして訊いた。
「明里さんを呼ぶんですか?」
「できることなら、そうしたいと思っている。」
「いいなあ。きっと穏やかで優しく年を重ねていくんですね。」
総司は自分のことのように嬉しそうな顔をした。
「もし、江戸で、姉に会うことがあったら、伝えてください。『総司は懸命に生きた』って。」
「え?生きた?」
「いえ、生きていますって。」
「必ず伝えよう。」
名残を惜しむかのように、夕日はひときわ美しく輝き、辺りを七色に染めながら沈んでいった。二人は黙ったまま次第に暮れていく湖に眼をとおじていた。


明日は早立ちしたほうがよいという総司の勧めで、二人は早くに床についた。
なかなか寝付かれぬ夜、どちらからともなく試衛館の頃の想い出話に花を咲かせていた。


*************


翌朝。六つおきした山南は、旅支度を急いだ。手甲脚絆をつけ旅装束に身をかためるのを、側で、総司は言葉少なに見つめている。支度を終えた山南と総司が宿を出た時、ようやく東の空がうっすらと明るくなり始めていた。
「これ以上は、未練だから・・・」
そう言ってついてきた総司とさっき別れて、山南は一人、江戸に向かった。日が昇ると、冬の日にしては珍しく、眼に浸みいるような青空が広がってきた。
「先を急いでくださいね。出来る限り早く大津から離れて下さい。」
そう言った時の総司の真剣な表情がなぜか、心に引っかかっていた。山南は妙ないらだちを覚えた。


***********


総司は、宿の一室で急いで書状をしたためた。山南を発見できなかったことの詫びと局中法度に従いその責めを負うことを簡単に書きつづった。 文机の上にその書状を置くと、その横に10両添えた。これは、宿の者に後始末を頼むための金である。


総司は、たたみを裏返し、端座して脇差しを抜いた。
総司が脇差しを正に腹に突き立てようとした時、いきなり障子を破って入ってきた人物が総司の手から脇差しをもぎとっていた。
「山南さん、どうして・・・」
総司は茫然と山南を見つめた。
「総司。何て馬鹿なことをするんだ。」
「山南さん、逃げて下さい。私は、これでいいんです。」
総司は、懇願した。山南は、ゆっくりと首を振った。
「総司、君は追っ手だったんだな。そうだ。近藤さんが見逃してくれても、あの土方が、私を許すはずはないのだ。私も甘い男だ。その甘さが、もう少しで君を死なせるところだった。」
「土方さんは、間違っているんです。山南さんの命より局中法度のほうが重いなんてこと、考えられません。そんなこと、あるはずない。」
総司の言葉に山南は、もう一度ゆっくり首を振った。
「土方の言ってることは、正しいのだ。総司。これまでにその名の下に多くの隊士を死なせた。おそらく、これからも・・・私だけ、例外であろうはずはない。そうだろう。」
その処断者としての剣ををふるっているのは、他ならぬ総司自身なのだ。
「君は、新選組にとって必要な人間だ。おそらく土方にとってかけがえのない存在だ。その大事な君を土方は、追っ手に差し向けた。
まさか、君が命を捨てて、私を逃がそうとするとは、思ってもみなったんだろう。そのことを知った時、土方がどんな顔をするか見てやりたい気がする。」
山南は複雑な笑いを頬に浮かべた。
「土方は、私に問いかけているんだ。おまえに総司は、斬れるか?総司を斬ってまで、やりたいことが、あるのか?・・・と。そして、私の答えはとうに見付かっているんだ。私には本当はやりたいことなど何もなかったんだと。」
なんと言われようと、総司は山南の死を黙って受け入れる訳にはいかなかった。
「山南さん、私は、こんな病を抱えている身です。おそらく、死を迎える日はそう遠いことではないでしょう。その日が今日であっても、たいした違いはないんです。でも、山南さんは、違います。
山南さんは、明里さんと、穏やかな日々を生きていくことができるはずです。20年、30年だって・・・いや、もっともっと生きられるかもしれない。」
山南の死が動かしがたいものとして、迫ってくるのを恐れるように総司は言葉をついだ。どんなことでもいい、山南の決心を変えられるならば・・・祈るような気持ちだった。
「昨日、言ったじゃありませんか。江戸に着いたら、明里さんを呼ぶって。そして、明里さんと生きていくって。言ったじゃありませんか。」
「君の命と私の命を秤にかけることなんかできないよ。第一、私の先を摘みとったのは、私自身だ。君の死の上に築く幸せなんてあるはずはない。」
どれほどの言葉を積み上げても、もはや山南の気持ちを変えることが出来ないことを知った。総司は絶望的な眼で山南を見た。
「理屈なんて本当はないんです。私は、ただ・・・ただ・・・山南さんに生きていてほしい。山南さんをこんなことで死なせたくない。それだけなんです。」
そう言った時、総司の眼から堪えきれない涙が、こぼれた。
山南は、震える総司の肩に優しく手を置いた。
「ありがとう。君のその気持ちだけで、本当に十分だよ。」
そう答えた山南の眼にも涙があふれている。
「もう、私には山南さんのために何もしてあげることはできないんですね。」
「総司、すまないが、壬生に帰ったら、介錯をしてほしい。私の死出の旅路の介添えをしてくれないか。」
「・・・・・・」
黙ってコクリと頷いた総司の眼から、また、ひとつ、涙が光って落ちた。


元治2年2月23日。
山南敬助、脱走の咎により切腹。享年32歳。
介錯は、沖田総司。
 

    完