二月二十三日/明け烏さん


 目が覚めたとき、真っ先に浮かび上がった姿があった。
思い出したくもない男だ。
昨夜来振り切れない。
記憶の外へ弾き出してしまいたいのだが、意識すまいとしても滑り込んでくるのだ。

二月二十三日。

考えずとも誰彼の口端にそのことは上る。
そして、土方の姿を認めると誰もが口を噤む。
忌々しい。
山南が死んだ日を、忘れる者はいない。
その日の非情な仕打ちをしたのは命じた近藤でもなく、首を打った沖田でもない。
全ての元凶は土方にあると、隊士の大方は信じきっているのだ。
嫌われ者、そして組の法を盾に取る情けを知らぬ似非な形だけの武士だと、直に告げる者が
いるわけでなくても、自分が歩けば視線がものを言う。
山南の死から一年が経っても、消えることがない、いや、むしろ強くなる。
(上等じゃねぇか、山南。)
転がった布団の中、脳裏の薄ら笑う山南にごろを巻く。
ふと、今自分が寝ているのは、山南が死を賭して反対した西本願寺の一室だと思った。
土方の唇が勝ち誇ったようににやりと笑った形に持ち上がった。
が、目は笑わない。
(お主が死んでも俺のやり様は変わらぬさ。)
一人ごちたその瞬間、あっと思った。
(まさか・・・)
山南が勝ち誇ったように笑う声が耳元にした。
(蛇蝎のように嫌われ、恐れられ、それを望むなら俺がおぬしをそういうふうにしてやろう。
自分の生命と引き換えても、俺はおぬしを許しはしない。
生あるうちに為しえなかった意趣返し、俺は死ぬことで為すを笑うか、土方。
おぬしはあがけ、俺さえも生かさず我を通して作り上げた新選組の中で、心を許す者もなく、
盟主に頂く近藤の理解も薄いままに、これからのおぬしの懊悩が、俺には楽しみで堪らぬ。)
土方の脳裏の山南は、見下ろす頂から冷ややかに声なく語りかける。
かっと、土方は逆上した。
傍らにあった茶碗を手に触れざま力任せに投げた。
茶碗が障子を突き破り、庭へ飛んで敷石に落ちたか、かちゃんと甲高い音がして割れた。
「俺を虚仮にしようったって、そうはさせん。」
怒る目で破れた障子を睨む。


 いらいらと、ばっと立ち上がり徐に夜着を脱ぎ捨てた。
稽古着を乱暴に肩に羽織り、乱暴に部屋をでる。
行き先は朝稽古の道場だ。
大勢の隊士の掛け声と板場に厳しく竹刀を打ち合う音がする。
そこへまだ朝冷えのきつい道場が更にビリリと体が震えるような土方がやってきた。
入り口でぎろりと見渡す。
髪が逆立っている。
打ち合う隊士の間を師範を務める斉藤一が檄を飛ばしながら、歩き回っていた。
それに向かって、おい、というようにあごをしゃくった。
土方の目が物狂いかというほど激しい。
斉藤はそれに怖気づくものではない。
が、少々うざったい。
見るからに今朝の土方はしつこそうだ。
ちらっと斜めを歩く永倉をみたが、永倉にしてもごめんこうむりたいのだろう、
斉藤を無視している。もう一人の沖田など、いついなくなったのか、影さえ見えない。
しかたがない、そうは思っても斉藤は表情には表さず、土方のそばへ歩み寄った。
「お相手しましょうか。」
ぼそりとした口調が、いつに変わらない。
むっと引き結んだ土方の唇が紅い。
黙って立っていれば女が振り向く白皙のすらりとした優しげな器に、中身はどうして、
人目を欺く激しい気性を抱えている。
「容赦しやがったら、ただじゃおかねぇぞ。」
口も悪い。
背の高い斉藤を斜から睨めつけるように視線を走らせた。
(ガキ大将だな。)
呆れながら、斉藤は冷静だ。
竹刀を合わせて間合いをとる。
初っ端から土方のモードは最高潮だ。
いつもは狡猾に相手の裏をかく攻め方を好んでするというのに、向き合ったとたん、
土方は呼吸を一息つくかつかないか、真っ向からダンと右足を踏み込んだ。
半歩を踏み込みながら竹刀を軽く浮かせ、斉藤を誘う。
更に竹刀を廻して踏み込んだ。
胴撃ちと見せかけて小手を狙う。
竹刀が狙いどころを通過するときには、斉藤の腕はそこにない。
間髪入れずに斉藤の切り替えしの一撃が土方の伸びきった腕の下、左胴を襲った。
二、三寸丈高い斉藤は、やや土方よりも間合いが長い。
経験でそれを知ってはいても、斉藤のほうが冷静な分土方の動きを見切っている。
鋭い音で撃たれたところが体の奥深いところまでひりつくようだ。
顔をしかめながらも、土方は更に向かう。
斉藤の竹刀がビクリと僅か反応するように動く。
摺り足でじりじりと右へ移動し、それにつれて構えを下へ下げた。
そのまま攻め込むと、斉藤は距離を保って攻め込むのと同じ速度で下がる。
下がりながら、すいっと体制を右に流し、勢いに任せて土方が下から巻き上げてきた竹刀を上に
ひらめかせた竹刀でガシッと押さえつけた。
体が縺れ合う。力比べで竹刀が離れない。
がむしゃらに押し合うのだが、そのうち土方がふっと力を横にずらし、力余って斉藤の竹刀がガツンと
床板を叩いた。そこを飛びのきざま篭手をしたたか撃った。
土方が荒く息を継ぎながら、苦虫を噛み潰し斉藤を睨み付けた。
傍からはわからない。
それほど自然に斉藤は隙を作った。
乗せられて一本を撃ったのだ。
「てめぇっ。」
低く威嚇し、荒々しく竹刀で床を叩いた。
「ふざけるな、本気でかかって来いっ。」
途端に、斉藤からじわりと冷ややかな気が滲み出た。
目を獲物を狙う獣のように細め、この男が人を斬る時の癖である方頬を歪める表情を浮かべた。
すっと、腰を落とした。
小うるさい。
元来斉藤も気の長いほうではない。
朝っぱらから土方のいらいらに付き合うほど殊勝な心がけなど、さほどない持ち合わせていないのだ。
突きの構えに殺気を込めた。
突きといえば沖田が得意とする技だが、斉藤の突き業も寸毫の狂いもなく咽喉を狙ってくる。
土方の両手の甲がじりじりと緊張してきた。
まともに受ければ只では済むまい。
斉藤は気を溜めて、熟すのを待つ。
土方の頭の中に、何もなくなった。
ただ眼前の斉藤だけがある。
気で負けるものではない。
細く息を吐き、斉藤の気息を計るが、斉藤の呼気は止まったかのようにひそやかに静まり、尖った
殺気が突き刺さる。
青眼に構えて突きの軌跡を予測し、突いてくる切っ先を弾き飛ばすしかない。
見切るのはほんの一瞬の間だ。
つっと、斉藤の左足が板を嘗めた。
体重を片方に掛け、いつでも飛び込める体制になった。
どんっと、斉藤の体が飛び込んだ。
伸びきった斉藤の竹刀の切っ先を僅かに土方の竹刀が掠めた。
咽喉の横を紙一重で斉藤の竹刀が通った。

「それまで。」

ふいに野太い声が道場に厳しく響いた。
近藤勇が腕組みをして立っている。
背後に沖田がいるのをみれば、おせっかいにも呼びにいったのだろう。
斉藤はやれやれと竹刀を引いた。
土方にしては少しく忌々しさが残っている。
が、近藤の前で荒れた様を晒すわけにもいかない。
鋭い一瞥を近藤の背後の沖田に注いで近藤の傍へ歩み寄った。
「総司がいらん注進をしたようだな。」
どうも近藤を前にすると昔から気持ちが萎える。
今もそうだ。
近藤の器というものだろう。
威圧とは違う、抗いきれないものが近藤には天性備わっているように思えた。
近藤は一言、
「飯だ。」
立会いには触れてはこない。
土方は、俺の内心を察しているのかと、一足先を行く近藤の背を追った。
何か言われれば土方は殻を張る。
長い付き合いで近藤には手に取るようにそれがわかる。
今日と言う日が意味さす、土方の稚戯にも等しいこの仕合も、近藤は否定はしない。

近藤のそんな仕儀を、土方もまた知り尽くしている。
山南の幻影は不思議なほど霞れていた。

飯を食い終わり、居室から覗く空を見上げた。
一年前の今日とうって変わって空は晴れている。
あの日は驚くほど寒かった。
朝から小雪が強い風に舞う日だった。
そんなうら寂しい日に山南は腹を切った。

山南を嫌いではなかったはずだ。
それが、いつからずれはできたのだろう。同じ物事を追いながら、人間の心の襞は日々少しずつ
違った記録を残していく。山南の襞は大きくうねっていたのだろうか。
死ぬ間際、彼の言いかけた言葉が自分をこの一年ずっと縛っている。
呪縛は緩むことがあるのか。
土方に向けて吐かれた言葉は「九尾の狐」と土方を捉えて、死に行く山南の心を凝縮して
誰もに印象を深く刻み付けてしまった。

「馬鹿野郎が、姑息な真似しやがって。生きて俺と張り合おうとは思えなかったのか。」

二月二十三日。

土方のざわついた心は収まらない。




「流歌」の明け烏さんに頂いてしまいました。山南切腹から一年後の土方歳三です。
その死について表立って責める者はいなくとも、自身に向けられる冷ややかさを感じ、なにより山南の死に縛られている己に苛立ち荒れる土方。迷惑げに立ち会う斉藤さん他、回りを囲む人達の距離感がとても絶妙です。
押し付けヘボ絵のお返しにとくださったんですけど、こんなすごいの勿体無さすぎる(;;)
明け烏さん、ほんとにありがとうございましたm(_ _)m