しとしとと降り続ける雨は、止む気配を見せなかった。
俺はとある温泉宿で人待ちをしていた。
慶応4年4月24日。
昨日の宇都宮城防衛戦の最中に、足の指に被弾した。傷はたいしたことはないのだが、足の負傷では戦にならなかった。直ちに数名の新選組隊士に付き添われ、日光の手前、今市宿まで後送されたのだ。
疲れが澱のように身体の中に沈殿していた。
気を抜くと、そのまま奈落の底まで引きずり込まれそうな不安定な気持ち。
精神を蝕まれると、こうも疲れを感じるものなのか。
俺は、ひどく疲れていた。
朝から降っていた雨は止まない。
待ち人は、まだ、現れない。
**********
「土方さん、あなたには分からないんだ。」
突然俺の耳に甦った声。
俺に非難がましい口調でそう言ったのは誰だったろう。
「あなたには・・・この気持ちは分からない・・・」
そう言って目を伏せたのは・・・
そうだ。あれは、総司だった。
つい数年前の京都での日々がなぜか遙か遠い昔のことのように思えた。あまりにも俺の世界は変わってしまった。
普段暢気な総司があんなことを言ったのはなぜだったろうか。
俺は記憶の糸をたぐりよせるように瞑目した。
「酒井兵庫を斬れ。」
俺が総司を副長室に呼んでそう命じた時だった。
「どうしても斬らなくてはならないのですか」
珍しく総司は、そう言った。普段は俺の命令に反論することのない総司である。
「このまま見逃すことは出来ないのですか?」
総司はもう一度そう言った。
酒井兵庫は新選組の結成当時、京都において応募した第一期以来の人物である。隊の会計方を勤め、近藤の信任もあり、温厚な人柄が、若い隊士にも慕われていた。その彼が脱走した。
蛤御門の変の後、僅かな失態が死に結びつく・・・と言った隊内に粛正の嵐が吹きまくっていた頃だった。その粛正の手がいつ我が身に及ぶか分からない。疑心暗鬼になった酒井はそれに怯え、臆病風に吹かれて脱走したのだ。
酒井は草創期からの人間であるから、隊の機密を握りすぎているのだ。酒井の口からそれがもれることを恐れたのは当然のことだった。
俺は、酒井の行方を監察方を総動員させて探らせた。その探索の結果、酒井が大阪の住吉の神官宅に匿われていることが判明したのだ。
酒井の脱走の訳をどのように心情的に理解しても見逃すことなど出来るはずはない。分かり切ったことなのに、総司は今夜は執拗だった。
「酒井さんを斬らねばならないのですか」
「そうだ。」
俺は感情のない声できっぱりとそう言った。
「土方さん、昨日まで同じ釜の飯を食っていた・・・そんな人を斬るのは辛いです。それもたいした罪状があるわけでもないのに・・・あの人の臆病は死に値するものなのでしょうか」
「総司、臆病が罪なのではない。脱走が罪なのだ。」
俺の言葉に総司は黙って下を向いた。
酒井は誰にでも親切な男だったが、総司が酒井兵庫と個人的な係わりがあったとは、思えない。ただ、総司に最近粛正の刃をふるわせることが多かったのは確かだった。そのことで総司が心身共に疲れていたことに気付いてやることはできなかった。
「お前が責任を感じることはない。お前はただ命に従っただけのことだ。命じたのは、俺だ。憎まれるのも俺でいい。」
そう言った時だった。
「土方さんには、分からない。」
総司は悲しそうに、しかし、きっぱりとそう言った。
「土方さんは、命じる。私が斬る。」
総司はそう言って自分の手を見た。
「土方さんには、この気持ちは分からない。」
「何が言いたいのだ、総司」
「実際に斬ることの重さです。この手にかかる命です。その命を断つ・・・この手に残る鈍い痛み。」
総司は自分の両手をぎゅうっと握りしめた。
「土方さんは、『命じたのは、俺だ。俺を憎めばいい』というけれど・・・土方さんは、実際には口で言うだけだ。土方さんの手は汚れない。返り血を浴びることもない。だから・・・」
「だから・・・」
「土方さんには、この気持ちは分からない。」
そう言って総司は目を伏せた。
あの頃の俺は、総司の心の痛みなど考える余裕もなかったのだ。新選組を強くする、最強の武士団に作り上げる、そのことで頭はいっぱいだった。総司にも新選組幹部としてもっと非情に徹する強さが欲しいと願ったほどだった。
あの時の総司の気持ちが今なら分かる。
そう・・俺はこの手で味方の兵士を斬り捨てたのだ。
この手に残る鈍い感触も、浴びた返り血の生あたたかさも俺の身体が覚えている。忘れようとしても忘れられない。
4月19日早朝。
宇都宮城攻撃は3つの先鋒軍に分かれて行われた。
先鋒は、俺が桑名藩隊を率いて行った。中軍は伝習第一大隊を率いて秋月登之助が、後軍を回天隊がつとめた。
俺は、下河原門を攻め、他の2軍もそれぞれ、中河原門、今小路門、南館門に突入した。
戦いは、あっという間に敵味方入り乱れる乱戦になった。
その兵士の姿を見たとき、俺のなかで何かがカッと炎のように燃え上がった。俺の心のなかでくすぶっていたものが一気に火を噴いたのだ。それは、心のなかで燠火のごとく消えることのない闘志だったのだろうか、
そのまだ若い兵士は、この激しい乱戦の中で臆病風にふかれたのだ。無理もない。城からの攻撃は峻烈をきわめていたのだ。しかし、俺は、その兵士が許せなかった。
俺は、逃げる味方の兵士をこの手で斬り捨てたのだ。信じられないという顔をしたまま断末魔の叫びをあげてその男は倒れた。
「退く者は誰であろうと斬る!」
俺は血刀を振り上げて、叫んだ。おそらく悪鬼のような形相になっていたことだろう。
「進め!退くな!」
俺の叫びに、他の兵士たちは、その勢いに押されて退くことなく前進していった。今までともすれば退却しそうな兵達がまるで水を得た魚のように活気づき、果敢に敵に向かっていったのだ。
勝敗は午後になって決した。
俺たちは炎に包まれた城を見上げた。
家老が二の丸御殿に火を放ち、退却したのだ。
宇都宮城は陥落した。俺たちは勝利を握った。
まだ若いその兵は、我が身に起こったことすら理解していないのかもしれない。横たわるその遺体に俺は、頭をたれた。
「手厚く葬ってやってくれ。」
言葉短くそう言うと、俺は振り返ることなく陣営に戻った。
あの若い兵を斬ったことを今でも俺は後悔していない。
「総司・・・俺はお前とは違う。たとえあの頃、お前の痛みが分かっていても俺は同じ事を命じただろう。何もかもねじ伏せて俺に従わせたに違いない。」
もし、ここに臆病風に吹かれて退く者がいれば、俺は再び剣を振るうだろう。
味方の返り血を浴びても、俺は怯むわけにはいかない。
幾千の屍を踏み越えても俺は闘うことを止めるわけにはいかない。
「仕方がないなあ。土方さんは、鬼なんだから・・・」
総司の苦笑いの顔が浮かんできた。
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「土方先生、お客人がお見えです。」
その声に俺の意識は現実に引き戻された。
「歳さん、久しぶりです。」
入ってきた土方勇太郎は、この男独特の穏和な笑顔を見せた。
勇太郎は、5つ年下の俺の幼なじみである。
八王子千人同心の家に生まれ、俺と一緒に近藤周助先生の道場に入門した同門なのである。
勇太郎が、日光勤番として千人隊詰め所にいると知ったとき、俺はやもたてもたまらず、会いたいと思ったのだ。今朝早く、中島登を使者にたて、勇太郎を迎えに行かせたのだ。
「勇太郎、よく来てくれた。」
「歳さん、怪我は大丈夫ですか」
「これか」
俺は少し大げさに包帯を巻かれた足をみた。
「ほんのかすり傷さ。」
「相変わらず歳さんは、剛毅だな」
勇太郎は軽い声をたてて笑った。
「宇都宮城攻撃のご活躍は聞きましたよ。ご苦労でしたね。」
「・・・・」
勇太郎のその言葉を聞いたとき、俺は不覚にもはらはらと涙をこぼしてしまった。
「歳さん・・ど、どうしたんです。」
慌てる勇太郎に
「勇太郎・・・俺の話を聞いてくれるか。いや、聞いてくれ!」
俺は手のひらで涙を払うと、宇都宮城攻撃の際に若い兵士を切り捨てたことを話した。
「あの兵士を斬ったことは後悔はしていない。ただ、考えると哀れでならない。勇太郎・・・これで、あの兵士に立派な墓を建ててやって欲しい。」
用意していた金子を勇太郎に渡した。勇太郎は、何も言わず、ただしっかりと頷いてくれた。
「ここでお前に会えて本当によかった。」
「まさか、こんなところでお会いできるなど・・私も嬉しかったです。」
「勇太郎・・・今度こそ俺はもうダメだと思っている。」
「歳さん。そんな気弱なことを・・・怪我が治れば。また。八面六臂の活躍ですよ。」
勇太郎は俺が怪我のせいで気弱になっていると思ったのだろう。俺を励ますようにそう言った。
この時すでに俺の頭の中には、関東脱出の計画があったのだ。
北へ・・・おそらく薩長との戦いは、北へ北へと進行していくにちがいない。
「俺はきっと、これからも戦い続けるだろうが・・・だが、おそらく、2度と江戸にも多摩にも帰ることはかなわんだろう。せめて里に形見の品を届けて欲しい。」
そう言って俺が渡したのは、京都時代からの愛刀、和泉守兼定だった。
「これを手放していいのですか」
「・・・・」
黙って頷いた俺に、勇太郎は
「必ず届けます。」
と、約束してくれた。
思いがけず勇太郎に出会い、あの兵士の供養を頼むことが出来た。 ふる里への形見の品も託す事が出来た。
俺に思い残すことは、もう、何もない。
俺の心の中で燠火のごとく消えることのない闘志。今こそ、この命のつきるまで闘おう。
完
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